「ハードボイルドごまつぶ野郎」 作 リトルおやぢ
こいつの運命を私は知っている。
この、すり鉢状の火口にも似た崖の頂上から、私は自分の足元を眺めている。足元には懇願の眼差しで私を見つめている奴が一人、崖の縁にしがみついている。崖の底には既に生き絶えたもう一人の姿が小さく見える。
崖の縁にしがみついているこいつは、頼むから早く自分の手を掴み、崖の上に救い上げてくれと、私に求めている。
「ダメだね」私は冷やかに呟いた。こいつの運命を私は知っている。
こいつとはついさっきまで一緒に朝食を楽しんでいた仲だった。こいつも、既に崖下で朽ちている奴も、金色の笑顔で私の朝食を楽しませてくれた。しかし、今は違う。こいつに対して恨みなどは無い。むしろ、楽しい朝食の一時を味わせてくれたのだから、感謝すらある。
私は再び足元に目をやった。こいつの指が必死に崖の縁に食い込んで、自分の全体重を支えている。その顔には金色の笑顔は無かった。
「きれいな爪をしているな」
私はポケットからスポンジを取り出し、液体洗剤を染み込ませ、34回スポンジを揉みほぐした。この回数は、私が日頃の研究から割り出した最もきめ細やかな泡が産まれ出る数値だ。スポンジを包んだアートとも言える美しい泡は、朝の光を浴びてキラキラと輝いている。私はこの美しい泡で、岩に食い込んでいる指の一本一本を丁寧に磨き始めた。奴の懇願の表情は疑惑になり、怒りになり、再び懇願に戻ったかと思った瞬間に刹那気になっていった。
こいつの運命を私は知っている。こいつはやがて、私の手によって崖下に落とされるのだ。
私は、今度はポケットから水の入ったペットボトルを取り出すと、足元の二つの泡の塊にチョロチョロと水を掛けていった。刹那気な表情は恐怖の表情に変わっていく。その表情を目にしても私は冷静だ。
「お前はちっぽけなゴマ粒なのさ。私には逆らえないのだよ。」
私はそう言いながら次第にペットボトルの傾きを大きくし、水量を上げていった。岩に食い込んだ指が泡と水により一瞬ズルっと滑った。しかしまだ必死に岩を掴んでいる。更に水を打ちかけるように、私は激しくペットボトルを振り、水で奴の指を打った。流れろ!さあ!流れ落ちろ!それがお前の運命なのだ!お前は崖底に滑り落ち、私のこの水に溺れ、やがては深く暗い地下を流れる腐った水流に飲まれていくのだ!!落ちろ落ちろ落ちろ!お前にはもう用は無い!貴様の様なちっぽけな奴は落ちて消えてしまえ!!
こいつの運命を私は知っている。
「あんた!何やってんの!」
振り返ると妻がテレビのリモコンを片手にこちらに向き直りイライラと私に言葉を浴びせていた。妻はいつの頃からだったか、私より遥かに巨体なっていた。
「そんなのさっさとやっちまいなよ!」テレビのリモコンを今にも私に投げつかん勢いで振り回している。
「すまん…こいつが思った以上に強引で、なかなか落ちてくれないのだよ」私はリモコンがいつ飛んで来ても避けられる様に身構えながら言い訳した。
「そんなチビチビと水を掛けてるからでしょ!!こうするのよ!!」
妻はその巨体とは似つかぬ俊敏さでこちらに来ると、私をほとんど突き飛ばさん勢いで、私と奴の間に仁王立ちになった。一瞬、妻と奴の視線が交差したのを私は見た。奴は私には見せた事の無い恐怖と諦めの表情を浮かべ、そして、その顔に打ちかけられた滝の様な勢いある大量の水と共に奈落の底に落ちていった。
「さっさと済ませて、あと、ゴミも早く出さないと収集来ちゃうわよ!まったく、毎日毎日…自分で始末するって言っときながら…だいたい何さ、エコだか自然環境保護だか知らないけど、そんなペットボトルの水で…ホント、ゴマ粒みたいにちっぽけなんだからイヤになる!…ブツブツ…」
妻は私から取り上げた茶碗を再び私に押し返し、リビングに戻ってテレビの前の所定の位置にどっさと、その巨象の様なお尻を鎮座させた。
ブツブツと小言を続ける妻を背にして、私はペットボトルの最後の一滴を茶碗に浴びせた。そこにあいつの姿はもう無かった。茶碗の縁のゴマは、もう一つのゴマ粒と一緒になって茶碗から落ち、流しの中を水流に乗ってクルクルと円を描いてから、下水口の中に消えていった。
こいつの運命を私は知っている。
なぜなら、これが私の毎日の始まりだからだ。
・・・おわり